阿武山古墳 2014・1・29
阿武山古墳 高槻市 14,1,25
昨年の暮れに、高槻市市制60周年記念行事に、阿武山古墳の説明会があったらしく、テレビの集材で知った。
藤原釜足の墓 ?
ウバメガシで囲まれた平らな古墳
人骨
阿武山古墳は、平野を見下ろす標高210m余りの山頂にあり、遠く笠置から生駒、六甲の山々を望むことができる。
この古墳は盛土をとらず、尾根の先端部に溝をめぐらせて径約82mの範囲を墓域として区切られている。
墓室は花崗岩の切石と「セン」(レンガ)で作られており、墓域の中央、地下約3mにある。
床の中央には棺台がしつらえられ、墓室の内側は漆喰が厚く塗られていた。
棺には布を何枚も漆で貼り合わせた夾紵棺(キョウチョカン)がもちいられ、なかに60歳前後の男性人骨がほぼ完全にのこっていた。
錦の衣服をまとい、ガラス製の枕をして、胸から頭にかけ金糸が散らばっていたことが知られている。
墓室は、昭和9年に偶然発見され、「貴人の墓」として反響を呼んだが、出土品は調査後まもなく埋め戻された。
被葬者については、発見直後から飛鳥時代の大豪族である「藤原釜足」をあてる説がある。
おもに釜足と三島の関係を語る伝承にもとづくものであった。
昭和62年には人骨のX線写真の検討から生前の体格や死亡時の状況があきらかになった。
また絹製の冠や玉枕も復元され、それが7世紀後半の最高位者に贈られた冠にあたるとして669年に没した大織冠藤原釜足の墓とする説が再び脚光を浴びている。
阿武山古墳は、数少ない飛鳥時代の墓製を示す貴重な古墳として国の史跡指定を受け、永久保存がはかられている。
平成元年3月15日 文化庁
大坂府教育委員会・茨木市、高槻市教育委員会 説明版
京都大学地震研究で観測機設置の時(昭和9年)に発見、釜足の別荘がここにあったことや、狩りに来て落馬して、腰椎を骨折アバラも骨折しているが、少しアバラは元に戻りかけている状態で骨折後2ヶ月程生存していたことが判明している。
茨木市と高槻市の境界に位置し、発見当時は延べ2万人の人が訪れたという。
古墳より京都大学地震観測所を望む。
テレビの報道では、その後の研究でほぼ間違いなく藤原釜足の墓に違いないと言われていた。
是非そうあって欲しいと願い古墳を後にした。
☆午前中園芸、車の一年点検、代車を借る。
2,162歩