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beyonyoの旅日記

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出歩くのが大好きなbeyonyoの写真の記録

万葉句碑 2017・8・8

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                      万葉句碑  湯浅栖原  17,8,3 

ゆらのさき しほいにけらし しらかみの いそのうらみを あえて こぐなり
                         万葉集 巻九 (一六七一)

天宝元年(701)持統天皇が二回目の牟ろ(白浜)温泉への行幸の途の歌(詠み人不詳)
糸我峠(有田市)から尾根を伝って栖原海岸への持統天皇の従者が口ずさんだ歌。

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                   施無畏寺(せむいじ)参道  

ここ施無畏寺は明恵上人開基のお寺で裏にそびえる白上山は(万葉集に詠まれた)若き日の明恵の修業されたところ。

明恵は自己に対して徹底的に厳しい人だった。仏教史学者の辻善之助は、「日本の仏僧で確実に一生女性を犯さなかった人は明恵だけである。」

明恵は紀州の生まれで父は高倉院の武者所の平重国であった。
八歳のとき父母に死別し母方が紀州有田郡の豪族湯浅氏で、両親を失ったのち母方の伯母夫婦の手で養われた。

建永元年(1206)明恵は、後鳥羽上皇の院宣により高尾山の別院栂尾寺(とがのう)を再興し高山寺と号した。
この寺に講堂が完成したころ、承久の乱(1221)がおこった。
後鳥羽上皇らが鎌倉幕府から政治力を奪回すべく企図した政変で、この時の幕府軍は怒涛のごとく京の地へ侵入し、公卿から女官、遊女のすえにいたるまで襲ったが、明恵は寺へのがれてきた敗兵をかくまい、ついに捕われの身となった。
しかし幕府軍の総指揮官北條条泰時はかえって明恵の風格にうたれて釈放し、泰時が執権となるとしばしば高山寺へきて仏法を聞いたという。
「日本の名僧100人」より抜粋

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施無畏寺参道から見下ろす栖原海水浴場

湯浅に来て施無畏寺を訪ね本堂には行けなかったが二つの歴史に出会い、湯浅の地名の訳も知ることが出来た。



橋本やっちょん広場に買い物。
台風5号近畿直撃で心配していたが何の影響もなく終わった。
準備はメダカ鉢が雨で水量が増して逃げられるのを防ぐ用意をしたが正解だった。

親メダカ5年生が死ぬ、産卵が終え体力限界日々食欲も亡くなり活動も鈍く衰えて行くのが日に日によくわかり生き物との葛藤が続いた。
         2,428歩








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by beyonyo | 2017-08-08 08:48 | 万葉歌碑 | Comments(0)