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beyonyoの旅日記

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出歩くのが大好きなbeyonyoの写真の記録

2017年 03月 29日 ( 1 )

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                    樫井古戦場  泉佐野市  17,3,19

 (現地石碑文面)
大坂夏の陣の激戦地の一つである樫井古戦場は、元和元年(1615)四月二十九日ここ樫井の地で展開された。
冬の陣の和議のあと外濠を埋められた大坂方は、このたび先手おとって出陣し泉州へは大野主馬を主将として二万余の大軍を差し向け、徳川方の和歌山城主、浅野長晟の軍勢五千余を押さえようと図った。
二十八日浅野方の先陣は佐野市場へ到着、大坂方は岸和田を越えて追撃を続け翌日両軍が激突はもはや避けられない状態となった。
数的に劣勢な浅野方の諸将は軍議の結果、軍を市場から安松樫井に移った。
大軍を迎え討つには市場は東は野畑が広いうえ山遠く、西は海で浜辺が広く馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松、樫井は東は蟻通の松原、西には樫井の松原が海辺まで続き、中間には八丁繩手、その周囲が沼田のた、豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断した。

一方大坂方はここで、取り返しのつかない大敗を演じた。
主将大野主馬は慎重な作戦を立てていたが、先手の大将、塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをして小勢で飛び出してしまった。
二十九日未明、塙、岡部の両将を迎え討った浅野方は勇将亀田大隅は安松を焼き払い池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら樫井まで引き下がり、ここで決戦をいどんだ。
壮烈な死斗が街道筋や樫井川原で繰り返された。
一団となって戦う浅野方ばらばらの大坂方、まず岡部が敗走し塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け遂に矢を股に受け徒歩でいるところを討ち取られてしまった。

かつて樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じ、この夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この十日もたたない五月七日遂に堅固を誇った大阪城も落城し豊臣はここに滅亡したのである。
             (泉佐野市 泉佐野市教育委員会)

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                        激戦のあった樫井川

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                       淡輪六郎のお墓(豊臣の家臣)

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                               古い墓標

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淡輪重正、通称は六郎兵衛、豊臣の家臣
和泉の国淡輪荘n豪族、妹の小督局(お菊の母)は豊臣秀次の側室であったが、秀次は豊臣秀吉に切腹を命じられその際に小督局は三条川原で処刑され、淡輪家も連累して所領が没収された。
次いで同郷の小西行長に仕えたが、関ケ原の後に同家も改易されて浪人。
慶長19年(1614)から始まる大阪の陣では大野治長に従がい紀州攻めの一員として加わったが樫井の戦いで徳川方の浅野長晟軍と戦って討ち死にし、永田治兵衛に首を取られた。

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                           お墓の前の熊野街道

昨年この地に来て古戦場跡に行く宿題を残したまま今日に至ったが、付近に来る用事が出来散策した。
熊野街道と樫井川はほぼ平行にあり、泉市と泉佐野との境界線上に在った。
その線上に合戦の跡が続き戦国時代の歴史を辿ることが出来た。

古戦場の跡地をキャベツ畑の年配の女性に尋ねたら、泉州弁で詳しく教えて頂いたが、何と懐かしい言葉のなまりに、終戦当時、父の叔父の佐野によく来た頃に聞いた言葉の響きを思い出し故郷に来たような貴重なひと時だった。

            塙団右衛門のお墓  こちら



園芸、植木鉢の配置替え、工事の跡のコウキングと補修、
井上さん来客。
            2,936歩

by beyonyo | 2017-03-29 08:17 | 太閤記 | Comments(0)