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beyonyoの旅日記

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出歩くのが大好きなbeyonyoの写真の記録

カテゴリ:太閤記( 61 )

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                    樫井古戦場  泉佐野市  17,3,19

 (現地石碑文面)
大坂夏の陣の激戦地の一つである樫井古戦場は、元和元年(1615)四月二十九日ここ樫井の地で展開された。
冬の陣の和議のあと外濠を埋められた大坂方は、このたび先手おとって出陣し泉州へは大野主馬を主将として二万余の大軍を差し向け、徳川方の和歌山城主、浅野長晟の軍勢五千余を押さえようと図った。
二十八日浅野方の先陣は佐野市場へ到着、大坂方は岸和田を越えて追撃を続け翌日両軍が激突はもはや避けられない状態となった。
数的に劣勢な浅野方の諸将は軍議の結果、軍を市場から安松樫井に移った。
大軍を迎え討つには市場は東は野畑が広いうえ山遠く、西は海で浜辺が広く馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松、樫井は東は蟻通の松原、西には樫井の松原が海辺まで続き、中間には八丁繩手、その周囲が沼田のた、豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断した。

一方大坂方はここで、取り返しのつかない大敗を演じた。
主将大野主馬は慎重な作戦を立てていたが、先手の大将、塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをして小勢で飛び出してしまった。
二十九日未明、塙、岡部の両将を迎え討った浅野方は勇将亀田大隅は安松を焼き払い池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら樫井まで引き下がり、ここで決戦をいどんだ。
壮烈な死斗が街道筋や樫井川原で繰り返された。
一団となって戦う浅野方ばらばらの大坂方、まず岡部が敗走し塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け遂に矢を股に受け徒歩でいるところを討ち取られてしまった。

かつて樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じ、この夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この十日もたたない五月七日遂に堅固を誇った大阪城も落城し豊臣はここに滅亡したのである。
             (泉佐野市 泉佐野市教育委員会)

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                        激戦のあった樫井川

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                       淡輪六郎のお墓(豊臣の家臣)

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                               古い墓標

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淡輪重正、通称は六郎兵衛、豊臣の家臣
和泉の国淡輪荘n豪族、妹の小督局(お菊の母)は豊臣秀次の側室であったが、秀次は豊臣秀吉に切腹を命じられその際に小督局は三条川原で処刑され、淡輪家も連累して所領が没収された。
次いで同郷の小西行長に仕えたが、関ケ原の後に同家も改易されて浪人。
慶長19年(1614)から始まる大阪の陣では大野治長に従がい紀州攻めの一員として加わったが樫井の戦いで徳川方の浅野長晟軍と戦って討ち死にし、永田治兵衛に首を取られた。

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                           お墓の前の熊野街道

昨年この地に来て古戦場跡に行く宿題を残したまま今日に至ったが、付近に来る用事が出来散策した。
熊野街道と樫井川はほぼ平行にあり、泉市と泉佐野との境界線上に在った。
その線上に合戦の跡が続き戦国時代の歴史を辿ることが出来た。

古戦場の跡地をキャベツ畑の年配の女性に尋ねたら、泉州弁で詳しく教えて頂いたが、何と懐かしい言葉のなまりに、終戦当時、父の叔父の佐野によく来た頃に聞いた言葉の響きを思い出し故郷に来たような貴重なひと時だった。

            塙団右衛門のお墓  こちら



園芸、植木鉢の配置替え、工事の跡のコウキングと補修、
井上さん来客。
            2,936歩

by beyonyo | 2017-03-29 08:17 | 太閤記 | Comments(0)
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       「大坂の陣」記念碑 茶臼山  16,9,23

大坂冬の陣で徳川家康がここ茶臼山に本陣を取り、夏の陣では真田幸村が陣を取った。
幸村は安居天神の境内で戦死、「大阪の陣」から400年を迎えたことから茶臼山に隣接する浄土宗の名刹で「大坂の陣」のあと50年ごと追悼の法要を執り行ってきた「一心寺」が大阪市に寄贈。

荒波をデザインした扇形の群雄割拠を表し、円形の石は天下統一と平和を象徴しているという。

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                  以前からある碑

恒例の三姉妹夫婦で秋のお彼岸に一心寺にお参りに集まった帰り道、以前は有料だった天王寺公園は「大坂の陣」400年記念や阿倍野ハルカス開店など阿倍野界隈発展のため入園料無料になって裏口から入り茶臼山本陣跡を散策した。




彼岸の天王寺参りを済ませ一心寺で三姉妹夫婦が合流、お参りのあと恒例の「楓林閣」で昼食。
              13,331歩

by beyonyo | 2016-09-24 05:27 | 太閤記 | Comments(0)
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塙団右衛門五輪塔  泉左野市樫井  16,2,11


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大坂夏の陣の樫井合戦で討死にした塙団右衛門の墓所がある事を走行中知った。
尾張の国羽栗の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功を上げ、名を知られたが関ヶ原の戦い(1600)以後浪人して僧となり鉄牛と号した。

大坂冬の陣(1614)が起きると豊臣方に属し、大坂城に入城した。
慶長20年4月夏の陣がおこると豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主、浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進んだ。

団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝、熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井、で激戦が展開されたが大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討死にした。ときに48歳という。


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団右衛門を討ったのは、上田宗箇、亀田大隅あるいは八木新左衛門などの説があるが一定しない。
五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の士、小笠原作右衛門が造立し、石灯籠は、八木新左衛門の孫が奉納した。250回忌(1868)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し周囲を整え当地の観音寺に位牌を納めた。
以後当地の人達により守られている。

(いずれも説明板より)

塙団右衛門を討った人の孫が灯篭を奉納している資料を読み昔の人情に感動した。


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五輪塔の前の街道


この付近に淡輪六郎兵衛の墓と樫井古戦場跡がある事を知り後日散策してみたい。




メダカの産卵するシュロの巣を7個作る。
6,111歩


by beyonyo | 2016-02-25 07:53 | 太閤記 | Comments(0)
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     織田秀信終焉の地  橋本市向福  15,11,24


織田秀信は幼名三法師といい父は織田信長の長男、信忠、関ヶ原の戦いで敗れ自害する。
清州会議で豊臣秀吉の推挙で織田家を後継、岐阜城主135,000石となり秀吉の秀をもらって秀信と改名、関ヶ原で落城して自害を決意するが、福島正則に諌められ得度し高野山にのぼる。
かつて祖父信長が高野聖を追害したため聖に追われて山麓のここ向福村に閉居した。

村人の情けで善福寺の一隅に住み村の娘と結婚して一子をもうけ幸せな日々を送ったが、慶長10年(1605)5月8日病気のため秀信は26年の短い生涯を閉じた。

これにて織田信長の直系は断絶となる。

NHK大河ドラマ「江・姫たちの戦国」で全国フアンから脚光を浴びたが今はひっそりとしている。

本能寺の変の後大徳寺で信長法要の時、秀吉に抱かれ焼香、秀吉の知恵はのちに天下人になる、信長の嫡孫これだけの人物にしては淋しい終焉地であった。

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                      善福寺旧跡


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                     善福寺の井戸


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                   秀信終焉地からの眺め

月2~3度長年にわたり橋本市は「やっちょん広場」や九度山辺りに来ているのに付近に秀信の遺跡があることが知らなかった。
紀ノ川の橋本大橋を渡ってR371号線高野山に向かう裏道に有り何度も横を通りながら気が付かなかった。 それゆえ短時間で太閤記の一コマを散策出来何よりであった。




雨になり寒くなったのでコタツをだす。
1,552歩



by beyonyo | 2015-11-26 07:02 | 太閤記 | Comments(0)

             京都幕末の史跡  (番外)


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           豊臣秀次公之墓所 瑞泉寺  三条  15,2,4


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                  前関白豊臣秀次公墓


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   豊臣秀吉の甥、豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺である。

秀次は、秀吉の養子となり(秀次の母は秀吉に実姉)関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄四年(1595)7月高野山において自害させられた。
次いで8月秀次の幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処せられた。
遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。
慶長16年(1611)角倉了以が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘して、墓域を再建するとともにその地に堂宇を建立した。
寺号は、秀次の法号、瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。

本堂には本尊阿弥陀如来像が安置され、寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。


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          幼児・妻妾や殉死した家臣らをと弔う四十九柱の五輪塔


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                    引 導地蔵尊


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           慈舟山と号し浄土宗西山禅林寺派に属する瑞泉寺


この瑞泉寺創建から四年後、慶長二十年(1615)元和元年大阪城が落城して秀頼と淀殿は自害し豊臣家はほろびる。


幕末の史跡を散策中、秀次一族の哀れな終焉地と墓所の瑞泉寺に出会った。
現在は高瀬川と鴨川の間に在るが当時は鴨川の中州にありここが公開処刑場であった。
今でも生々しい無残な出来事があった現地に来て周りは観光地で賑わっているが淋しい気分になった。



園芸作業場の時計が故障し新しく電波時計を購入。
花菱来客
3,819歩





 

by beyonyo | 2015-05-26 06:19 | 太閤記 | Comments(0)


平野郷 ③  安藤正次の墓所

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藤正次の墓所  平野  14,10,11


江戸時代初期の旗本、禄高2千石
大阪夏の陣に徳川秀忠に属し、5月7日大坂城落城の直前に秀忠の使者として前田利常および本田康紀、両軍への攻撃を伝えた。
しかしその時数騎の敵と遭遇し単身で戦い敵方の首級を挙げたが自らも深傷を負って家臣に助けられ本陣に戻り、秀忠から功名したと賞賛された。
宿所の平野郷「願正寺」にて傷の療養をしていたが再起不能と悟って19日に自刃した。
享年51歳 法名は  淨徳院釈了栄

樋ノ尻口地蔵の前に墓所があった、偶然の出会いで夏の陣の激戦地を行く散策になった。


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樋ノ尻口地蔵の前から写す



岸和田愛彩ランドに野菜を買いに行く
菱井来客、夜衆議院選挙演説会に
4,033歩



by beyonyo | 2014-12-12 08:53 | 太閤記 | Comments(0)

「平野郷」

大阪で一番古い街といわれ、原始時代から現代まで全ての遺跡遺構がのこる町
戦国時代町の安全を守るため周囲を、豪と土塁で囲み自衛目的とした「環濠集落」ができた。
杭全神社を入れて周囲に13口の出入り口を設け、そこには地蔵堂が建っている。


平野郷①  樋尻口門跡と樋ノ尻口地蔵 
 

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樋ノ尻口地蔵  大阪平野区 14,10,11

大坂夏の陣慶長二十年(1615)5月6日の道明寺合戦に敗れた豊臣方は真田幸村隊を殿軍(ぐんがり)として大阪城に退却することになり、豊臣方を追撃する徳川家康がおそらく平野にて補給と休息をすると考えへ幸村は樋尻門の傍にあった地蔵堂の下に地雷火を仕掛けて家康を待ちました。
案の定家康が来ましたが、爆発する寸前にトイレに用達にその場を離れたとき爆発、急死に一生を得た。

地蔵堂のお地蔵さんの首(当時は木造)は家康の身代りとなって首が全興寺(せんこうじ)400mまで飛んでいったと伝えられ「首地蔵」として大切に祀られている。


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〒ポストの前が「樋尻口門跡」


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この地蔵堂を一点に散策に行ったが、以外な出会いに親切な方が3~4時間の間平野郷を案内して頂いた。

杭全神社の境内にある平野公園を掃除されていたのに、昼食もせず長時間歩いての説明に感動した。
大変猫好きな方でのらちゃんも懐いているやさしい方だった。
もう一度お礼方々、会いに行きたい・・・



園芸、冬の仕度で数珠サンゴ剪定,家中に取り入れる。
 1,480歩






by beyonyo | 2014-12-10 07:01 | 太閤記 | Comments(0)
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          桜門枡形の巨石  14,10,3

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                天守より桜門に向かう

            大手門から順を追わず逆コースで散策した



                 ★寒い雨の一日で外に出ず冬眠状態
                  308歩




by beyonyo | 2014-12-05 06:47 | 太閤記 | Comments(0)
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戦争の爪痕  天守閣  14,10,3


天守閣の裏この石垣の隅にボランテアの語り部の人に後ろから肩を叩かれ当時戦争体験された「岩田芳一」さんが、ここに一トン爆弾が落ちて石垣のズレが今も少しずつズレている。
そのための監視カメラです。石垣も少し膨らんでいる。
親切な誠のある話が一時間続いた。


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少し膨らんだ石垣


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監視カメラ


岩田さんは13歳で終戦を迎え学徒動員も経験されていて話は生々しい。


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砲営公社爆撃中の写真、矢印が大坂城 白い建物は堂島ビル

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一トン爆弾投下位置↑


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良い人に声をかけられ有意義な時間であった。
共に元気を誓い合い別れたがももう一度お会いしたい。




園芸、松の剪定、危険な姿勢で気が遠くなる今仕事、三日は十分かかる。
花菱、服部さん来客。
3,100歩











  


by beyonyo | 2014-11-12 07:28 | 太閤記 | Comments(0)


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隠し曲輪  14,10,3

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極端に入り口が狭くなっていて、中に入ると広い広場になりさらに進むと死角になった広場がある。


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                    曲輪入り口からの眺め

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                      広場からの眺め

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             死角になった場所からの眺め馬場町NHKを望む

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                    隠し曲輪より望む天守

           淀殿、秀頼の終焉地の上にあり当時を身近に感じた




園芸、菊の手入れ、ビオラの芽が出たポットに肥料をやる
7,322歩








by beyonyo | 2014-10-29 07:05 | 太閤記 | Comments(0)