吉水神社 2010・6・2
「山門付近」
「書院」
元吉水院と称し凡そ1300年前白鳳年間に、役行者の創立と伝える。
明治維新の神仏分離の際(明治8年)神社と改まった。
豊臣秀吉が、ねね(北の政所)、前田利家、徳川家康、をつれて、吉野山の花見の舞台になったところ。
花見の舞台は下の千本から如意輪寺に行く途中にある。
年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな
「境内より如意輪寺方向を望む」
「後醍醐天皇座」 パンフレットより
延元元年(1336)京の花山院より免れた後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり、吉水院宗信の援護のもとにここを南朝の行宮と定められた。
花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音
「義経・静御前 潜居の間」 パンフレットより
吉野山は源頼朝に追われた義経が、愛する静御前と永遠の別れになった場所。
格式の高い吉水院という僧坊にかくまって貰った、しかしこれより先は「大峯山」女人禁制の山。
静御前が一行の足手まといとなる事を知った義経は静に、都へ帰りなさいと自分が使っていた鏡を渡して「これを自分だと思ってくれ」といい、吉水院に五日を過ごし泣く泣く静は下山するが捕われ勝手神社で、舞をさせられ白拍子と確認された。
吉野山 嶺(みね)の白雪踏みわけて
いりにし人の あとぞ恋しき (静御前)
しづやしづ 賤のおだまきくり返し
昔を今になすよもがな (義経)
当時静御前は京でも有名な白拍子(舞い手)で後に鎌倉に護送され、鶴岡八幡宮にて思いを歌にして舞ったことは有名。
境内にて
勝手神社は平成13年9月不審火によって焼失して立ち入り禁止。
大海人皇子(天武天皇)が神前で琴を弾いたところ背後の袖振山から天女が舞い降りて舞ったという伝説もある。
松の木の付近の碑が静御前が舞ったところ「舞塚」
「吉水神社にある弁慶の力釘」
数多くの秘宝を展覧できた吉水神社、吉野山の数ある名所遺跡の散策で最後に残してあった宝の山
にふさわしい散策が出来た。
「境内より蔵王堂を望む」
2010,5,29散策