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beyonyoの旅日記

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出歩くのが大好きなbeyonyoの写真の記録

宇喜多秀家の墓  2016・9・28

八丈島だよりの最初の頃、宇喜多秀家の墓所をブログしたが当時の画像がいつの間にか消えてしまい、再度資料を送ってもらった。

前田利家の娘豪姫との生き別れ、八丈島で生き延びた秀家の思いを今は観光地になっている写真で偲んでみたい。

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         秀家・豪姫 八丈富士をバックに   大賀郷

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豊臣五代老にして岡山57万4千石の大名、宇喜多秀家は、関ケ原合戦に敗れたのち、一時伊吹山中に逃れ、その後、薩摩の島津家久のもとに潜伏する。

しかし幕府の追及が厳しくなると出頭し、前田家・島津家の取り成しもあって死罪を免れ、一旦駿河久能山に幽閉ののち八丈島へ流罪と決定、慶長11年(1606)8月秀家とその息子、秀高・秀継そして家臣10名の主従13名は八丈島へ送られた。

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                    秀家一族の墓所

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             五輪塔の左横の小さい石が当時の墓石

徳川の世をはばかって宇喜多一族の墓は低い石垣に囲まれていて、その中心にひときわ大きな五輪塔が秀家のお墓、その横の卒塔婆の形をした石塔が埋葬当初の秀家の墓石です。
表面には「南無阿弥陀仏」と刻まれていましたが判読が出来ないほど風化しています。

57万石の大名も流人となって幕府をはばかって、小さな墓しか立てられなかった。
その後、天保12年(1841)に子孫の手により墓は作り直され表面に秀家の院号「尊光院殿秀月久福大居士」が刻まれ現在の五輪塔になりました。

墓地を囲む石垣上には秀家が精魂込めて築いた岡山城天守閣の礎石の一部が運ばれて設置されている。

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                      岡山城天守閣の礎石

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「鳥も通わぬ」と言われた絶海の孤島で実に49年もの流刑生活を送り、明暦元年(1655)11月20日83歳で亡くなる。

時代は4代将軍家綱の御世になっていた。
八丈島は江戸時代を通じて流刑地のなり多くの罪びとが送り込まれたが、宇喜多秀家一家が第一号であった。

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最近出来た二人の像が本土を向いている姿は互いに恋しい思いが伝わってくる。

              (八丈島だより NO、1109~1119)

       関ケ原③ 宇喜多秀家本陣  こちら





園芸テラスにフエンスを追加取り付け2枚を工事する。
芝さん黒メダカの様子を見に来る。服部さんにささげご飯を頂く。
午後、泉北高島屋にsarubiaのカバンを買いに行く。
メイの運動会の日取りが決まる。
真夏の様な暑い一日だった。
                 6,495歩
                   






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by beyonyo | 2016-09-28 06:20 | 八丈島便り | Comments(0)