三之公への道 2018・4・16
三之公への道 川上村 18,4,13
入之波温泉からさらに奥へ昨年、湧水を汲みに行って、まだ奥に分かれ道があり郵便配達の人が走っているのを見た。
入之波温泉を過ぎると家はなく人里離れ大迫ダムを遡る。
大きい岩がせせり出し左は大迫ダムの険しい道が続く・・・
冬に備え薪の燃料が貯蔵され人の気配が感じる
危険を感じ勇気を出してユーターン、何度も切り替えしバックするブザーの音に窓からお婆さんが何事かのように見ている。
早速この先 「三之公」までの距離を聞くともうすぐらしいが、最近は人が行かないとの事。
後返りしたのは正解だった。
「後南朝」
何も知らずに大自然に触れるのを楽しみに言ったが、又、歴史の一端が繋がったドライブになった。
大台ケ原の山中に、「三之公」という変わった地名に謎を感じ調べると、南北朝時代、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が1336年足利尊氏に敗れて吉野に逃れ、足利氏京都に立てた北朝に対抗して南朝を開いたのが始まり。
1392年三代将軍義満の時に南朝の後村上天皇が、北朝の後小松天皇の次は南朝から天皇を出し、以後後呉に皇位を継承する約束になっていたが、こういう約束が守られた験しはなく、後小松天皇の次は、その子の称光天皇が即位した。
怒った旧南朝の後亀山天皇らが再び吉野に移り、南朝を「再興」した。これが「後南朝」である。
後南朝は曲折を経て追い詰められて行くが後亀山天皇の曾孫に当たる尊義王とその子尊秀王(自天王)忠義王の3人は川上村の山奥に居を構え最後まで抵抗したという。
当時の人は此の三人を三之公(皇)と呼んで敬い、これが地名になったと伝えられる。
三人の終焉地は、更に徒歩で2時間奥にあるらしい。
(川上村ホーム頁より引用しました)
思わぬ「後南朝」の歴史に出会い現地には行けないがロマンを感じる小さい旅であった。
★雨の一日で15:00まで骨休み。
今年初めてメダカの卵366個採取。
1,269歩