
「名前不詳」 天理市唐子遺跡にて 10,1,30
雨の前日の夕暮れに軒下などで群がって飛び回る虫,斜光の中で乱舞していた、羽化したての蚊の様な虫。

「藪蚊の幼虫(ボウフラ) 09,10,14
瓶の中でボウフラが湧き暫く観察した、目玉が大きく体は透明で立って泳ぎとても奇妙な生物の行動を観察できた。
蚊に羽化する瞬間を見ることは出来なかった。


「第19代允恭天皇 雄朝津向稚子宿禰尊(おあさずまわくごのすくね)
惠我長野北陵 前方後円墳 堀 藤井寺市国府一丁目
父 仁徳天皇 第四皇子
母 磐之媛命
皇后 忍坂大中姫命
子 木梨軽皇子
多形大娘皇女
穴穂皇子(安康天皇)
大泊瀬幼武尊(雄略天皇)

「正面東より望む」


「旧R170号線の交差点」 「西側の堀」


「陵入口碑・東側堀」
近鉄南大阪線土師の里駅よりR170号を北進すると右に御陵の森が見えてくる、交通量の多いところ脇道に入ると道が狭くなっている。
少し北に大和川があり高安山が望める。

国道沿いはマンションが建ち並び付近には道明寺・天満宮・や応神天皇の皇后(仲姫命)仲津山陵がある。

今は堀に水が無いが当時は二重の壕であったそうです。
森には沢山のカラスが居り鳴き声と群がって飛ぶ御陵の景色は古墳時代も変わらない想いを大事に允恭天皇陵を後にする。 2010,1,29


「第18代 反正天皇陵」 百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)
堺市北三国が丘町 10,1,26
淡路島で誕生、河内松原市、丹比柴籬宮正殿で崩御
父 第16代仁徳天皇の第3皇子
母 磐之媛命
皇后 津野媛
兄 第17代履中天皇
弟 第19代允恭天皇

陵内は植木の剪定と清掃され綺麗な御陵です

方違神社より望む 10,1,13

方違神社より
南海高野線堺東駅より300メートル程の所にあり,堺市庁舎や方違神社がある。
すぐ南に父仁徳天皇陵、さらに南に兄履中天皇陵がある。
御陵の廻りは静かな住宅地で御陵を借景にした庭のある家が多数ある。

「堺市庁舎21階展望室より反正天皇陵を望む」10,1,26
下左に堺高島屋その右に堺東駅ツインのビルはJR堺駅前のベルマージュ堺、43階建高さ142,83m.
734戸のマンション、中央図書館、スーパーイズミヤなどがある、高い山は生駒山(642,3)
柴籬(しばがき)神社


「反正天皇宮址の碑」 「柴籬神社」 河内松原市上田7丁目 10,1,15
この付近は反正天皇の皇居、丹比柴籬宮址と考えており(古事記・日本書記)によるとその時代は天下泰平、五穀豊穣の平和な時代であったと記されている。
平成三年に小松正枝様が歴代天皇陵を回られ自主出版(1000部)された本を買い求め今日に至って読み返し、今回近代の風景を取り入れた御陵の風景を、ウオーキングを兼ねて散策し(歴代天皇陵めぐり)をはじめます。
人工的な都市機能を持ていたとされる纏向古墳の一角です。


「石塚古墳」10,1,18 「勝山古墳・纏向小学校・三輪山」 四世紀の半ば頃に忽然と姿を消した都市とされ、都市機能を有する当時の日本の中心地であったことは間違いない史実のよう。


「矢塚古墳」 「東田大塚古墳」
木製品の年輪年代測定などから纏向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたことが判明している。弥生時代の末期から古墳時代前期にかけてであり、邪馬台国の時期と重なる。
当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり一種の都市遺跡である。


[珠城山古墳」 「説明板」

「古墳群を歩いた地図を作製」 10,1,22 初瀬山~三輪山の山麓に山の辺の道があります。記入洩れ

「ホケノ山古墳」 10,1,18
ホケノ山に駐車して箸塚を一周、纏向、珠城山、景行天皇陵など、卑弥呼を想像しての四時間程の散策でした。

「メスリ山古墳」 氷の前川池より望む 桜井市10,1,15
この古墳は古墳時代の四世紀のもので同じ桜井市域の箸墓古墳、桜井茶臼山古墳などの全長200メートル級の大型前方後円墳と一系列をなすものと位置づけられる。
これらの古墳は、全国各地の同時期の古墳の中では最大級のものであり各地の政治集団の連合の頂点に立つ首長墓と考えられている。
(説明板より)


説明板より少し奥に18の石仏がひそかに輪になって談合しているように置かれていた。
いろいろ空想にふけりメスリ山を去る。
PM15:09